第二の性

 『第二の性』をぼんやり読み返していたら、こんなフレーズがあった。

 多くの男の子はつらい自立を強いられることに怖気づき、そういうことなら女の子になる方がいいと思う。(『決定版 第二の性 ?体験(上)』新潮文庫、17ページ)。

 今朝の新聞に出ていた雑誌『SAPIO』の「女尊男卑」特集なんかが典型例だが、セクシズムに関して短絡的に「逆差別」という言葉をもちだすたぐいの連中は、要するに上のボーヴォワールの命題を相も変わらずベタに反復しているだけであろう。もっとも、重要な違いもある。ボーヴォワールが語っているのは三歳児のことであって、『SAPIO』の読者層であろう二十代、三十代の男ではない、ということもあるが、そのことではない。男であることがイヤで、本気で「女の子になる」のならいいのだ。誰にも非難されるいわれはない。そうではなくて、男としての見栄や既得権益は保持したまま、女の方が得している云々という攻撃によっておのれの欲求不満を解消したいだけの男たちがいるということだ。情けないと思うが、政治的および経済的には無視できない勢力ではあるにちがいない。

 学生たちに(と)よく話すのだが、個別的にみれば「女の方が得してる」と言えなくもない場面は、生活のなかにはたくさんある。たとえば、貧乏な映画好きの男子学生が「女はレディース・デイで安く映画が見られて得だ」と感じるかもしれない。しかしその次の段階では、アホな学生は「逆差別だ、女ばかり優遇するな」と逆ギレを増幅させることしかできないかもしれないが、見所のある学生なら、より広い視野のなかに問題を位置づけ直して、「平均収入に男女格差があるからオレが割を食うのだ、性差別をなくさないとこんな理不尽もなくならない」という見通しにたどりつくかもしれない。「映画代を男性優遇にしてくれ、その代わり、平均賃金は女性優位にして、育児責任も男が引き受けることにしよう」というなら、それなりに筋の通った主張だが、そんなことを言う人はまずいないように思われる。

 他方、誠実な女子学生のなかには、重い荷物を男子に運んでもらった程度のことで、何だかんだ言っても自分は女であることに甘えているのではないか、などと自問しはじめる人がいる。個人としてそうした反省を試みるのは意味のあることだろうが、それならば中途半端にせず、反省の前提そのものまで含めて反省の対象にするというところまで、考察を深めてほしいとも思う。つまり、筋肉の多い者が少ない者よりも重いものを運ぶのは不公平なのか公平なのか? 能力と報酬との関係はいかにあるべきか? つまり「公平」とは何か、「平等」とは何か、という概念そのものの意味まで考えてみることだ。もちろん、そこからは一人で考えるだけではだめで、腹を決めて勉強しなくちゃいかんのだが。

決定版 第二の性〈2〉体験(上) (新潮文庫)決定版 第二の性〈2〉体験(上) (新潮文庫)
Simone De Beauvoir 『第二の性』を原文で読み直す会

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