吉川浩満『理不尽な進化――遺伝子と運のあいだ』

理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ理不尽な進化: 遺伝子と運のあいだ
吉川 浩満

朝日出版社 2014-10-25
売り上げランキング : 1300

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 読んでためになるだけでなく、何というか、心が洗われるような本だった。

 本書のはじめの方で明かされるモチーフは、専門的な科学としての進化論の基本的な考え方を過不足く解説しつつ、それと大衆的な進化論のイメージあるいは「世界像」としての進化論との懸隔を明らかにしながら、(後者を前者に近づけようという科学的啓蒙とは別の関心から)その「懸隔」そのものの私たちにとっての意味を問う、といったところ。ここではひとまず専門家と素人との懸隔が問題であるように見える。しかし叙述が進むにつれて、それはドーキンスとグールドとの懸隔であり、また実はグールドの内部にあってその人自身を苦しめたはずの葛藤であり……と変奏され、さらにはそれが科学理論と世界像、自然と歴史、説明と理解、方法と真理、進化と人間との間の裂け目、すなわちおよそ私たちが何かを考えるときに不可避的に直面せざるを得ないような対立関係であることが明るみに出されてゆく。そして進化論こそが、そのような緊張の場に位置づけられるべき知であることが説得的に論じられる。

 このような壮大だがきっちりと整ったストーリーを提示する構想力と、それを具現化する丁寧な筆致に何より感嘆させられた。進化論そのものの解説は、もしかしたら全く予備知識のない人にはちょっと着いて行きにくいかもしれないが、入門書から専門書まで豊富な参考文献が挙げられているし、そもそも「なぜ着いて行きにくいのか」ということ自体が重要なテーマとして論じられているので、じっくり読めば何とかなるだろう。個別の(とはいってもやたらと射程が広いのだが)論点では、「適者生存」概念のトートロジー性をどうとらえるかについて、僕が今まで読んだ中で最もすっきり腑に落ちる説明をしてくれていると思う。大衆的な世界像としての進化論についての分析では、ゲームのルール自体が勝手に変えられてしまうという「進化の理不尽さ」が回避されるさまが指摘される。この点は僕自身の関心とも密接に関わるので特に興味深かった。僕は数年前に書いた論文で、進化論を背景とした遺伝子決定論/遺伝子還元主義について「生物学的メタファーの効果」という観点から分析し、T・ホンデリックの議論を参考に、決定論が「自分が自然と一体化しているという安心感」につながるのではないかと考察したのだが、このような「自然」の観念は、99.9%の種が絶滅するような「理不尽な進化」としてまとめられる自然像とは非常に異なるものだ。つまり遺伝子決定論を少なからぬ人々にとって魅力的なものにしている要素は、科学としての進化論が解き明かす進化/自然の理不尽さを回避する穏やかな自然の観念なのだろう。このようにつなげると、吉川氏による「進化観」の分析は、より広範な「自然観」の分析へと展開できるような気がした。

 他にも学んだことはたくさんあるが、ひとまず以上が「ためになった」面。もう一つの「心が洗われる」面としては(別に両者は別々ではないけど)、まず本書の筆致というか文体というかの絶妙の速度が心地よい。ある意味で冗長に感じられるところも多いのだが、たぶんそれは必要なクドさなんだろうなということはわかる。この点は、一般向けの書籍を書くのに四苦八苦している最中の自分にとっては一筋の光明をもたらしてくれた。それから、参考文献=ブックガイドに見られる著者の教養と心の広さ。端々からネット時代の書籍であることを感じさせられるにもかかわらず、ネット的な罵倒語彙めいたものが一切見られないこと。つまり低劣な自己顕示欲の垂れ流しとか欲求不満の吐き出しとかがないこと、と書くとなんだか基準が低すぎるようだが、自戒を込めて言えば、案外これが容易くはないのだ。
そして僕にとって何より「ためになり」同時に「心が洗われた」のは、著者自身にとっても予想外だったというほどの紙幅を割かれたグールド論。バーリントルストイ論「狐とハリネズミ」を媒介に、グールドが科学と人間的なもの=歴史との(あるいは、著者は使っていない言葉だが、繊細な精神と幾何学的精神との)間で悶え苦しんでいたとする分析は感動的であった。僕の個人史の話になるが、小中学生の頃に読んだ子供向け理系の本や古典SFで漠然と「進化」に興味はあったものの、僕がもう少し本格的にその面白さを教えてもらったのは何と言っても学生時代に触れたスティーヴン・J・グールドの諸著作からで、後に進化論理解はドーキンス長谷川眞理子(やShorebird氏のブログ)によって強制的にヴァージョンアップさせられたものの、やっぱり「好きな本」という意味では今もグールドのエッセイ群に憧れのような気持ちを抱き、学問への最良の誘いとして学生たちにも薦めている。だからグールドがウィリアムズ〜ハミルトン以降の行動生態学を頑なに誤解し続けているようにしか思えないことにはずっと戸惑っていたし、しかし他方、ドーキンスの訳者でもある某進化生物学者(最近はむしろナチュラリストというか環境保護活動家)が講演で「直観が素晴しいのはウィルソン、何にもわかってないのはグールド」と発言するのを聞いて、何だかなあと割り切れない気持ちになったりもしていた。そんなワタクシにとって、本書の迫真のグールド理解には、視界を覆っていたPM2.5が一気に吹き飛ばされるような感じがした。と同時に、やっぱり読むならここまでしっかり読まないといかんのよね、という反省もしきり。

 このあいだ、来年度の新入生向けにお勧めの本というアンケートを書いたのだが、もっと早く本書を読んでいればそこに入れられたのに。文系とか理系とか言う前に、まず本書を読んで、そこに展望された広大な領域から、いちばん自分の琴線に触れた箇所を掘り下げて勉強していけば、少なくとも無駄すぎる遠回りをせずに、充実した学生生活を送れるのではないだろうか。