「性現象」について

 先日の日記でもお知らせした小宮友根さんの新著『実践の中のジェンダー』の合評会がきのう無事に終わった。僕もコメンテーターを仰せつかったが、事前の準備に思うように時間が割けなかったという言い訳もあって、あんまりうまく報告の内容を整理することができなかった。
 ところで、会の中では時間切れで議論はされなかったのだが、小宮さんが使っている「性現象」という用語はなぜ選ばれているのか、英語に訳すとどうなるのか、またそれと関連して、小宮本の中ではジェンダーは出てくるけどセクシュアリティは全く出てこないが、これは積極的に排除したのか、という趣旨の質問があったと記憶している。これは素朴な質問だがそれなりに大事な問題にかかわっていると思うので、僕の大まかな考えを書き留めておきたい。
 僕もながらく「性現象」という言葉を使っている。大学での講義科目名は「性現象論」だし、最初の論文集のタイトルも『性現象論』(副題は「差異とセクシュアリティ社会学」)であった。毎年、講義の冒頭ではまずこの言葉の意味について説明している。それは同時に、講義の対象とか方法論についての説明でもある。言い換えると、性について社会学的に考察するとはどういうことなのかということについての説明である。
 年度によって多少変えたりはしているのだが、僕が最初にする説明はだいたいこんな風だ。「性現象」とは、私たちが日本語で「性」という言葉で呼んでいるすべての現象のことだ。もう少し正確に言うと、「性」とその派生表現(「性別」「女性」「男性」「両性」「性差」「性欲」「性愛」「性感帯」「性癖」……)によって指示されるさまざまな種類の現象の総体である。つまり性現象という言葉は、あらかじめ何らかの理論によって切り取られた特定の対象(肉体そのもののように物質的なものであれ、肉体の性質のようなものであれ、観念であれ何であれ)を切り取るものではない。これは(かなり哲学的な考察や、生物学的な知識の紹介も含むとはいえ)社会学の講義であり、そして社会学とは要するに人びとが何を考え、何をやっているのかを理解することなのだから、性を社会学的に研究するためには、まずは人びとがどういうことを性だとみなしているのかを摑むところから始めなければならない云々。(もちろん、こうした対象指示のためには、オブジェクト・レベルの性と区別しうる記号でさえあれば「性現象」以外でもよいし、実際僕も講義の中では短く〈性〉と書いたりするが、「性現象」でも悪くはないだろう)。
 これを、「ジェンダーについて論じます」「セクシュアリティについて論じます」といった言い方で置き換えることはできない。仮に置き換えたとしても、まだジェンダーとかセクシュアリティとかいった概念を知らない学生たちに対してはそれらが何を意味するのかをさらに説明をする必要があり、そこでは「男女の区別にかかわるいろいろな事柄」だの「日常語では性欲と呼ばれているものを、ちょっと見方を変えてみると……」だのと言わねばならないのだから、結局は同じことなのである。
 それに、結構以前から時たま耳にする「ジェンダーは扱われているけどセクシュアリティは扱われていない」(またはその逆が、フーコーの『性の歴史』については言われたりする)といった言い方にはどうも違和感がある。言っている人がどういう意味でそう言っているのかを確かめたことはないので、以下は不当な誤解かもしれないのだが、そういう言い方をしてしまうと、ジェンダーという言葉の指示対象、セクシュアリティという言葉の指示対象が、分析以前に前もって存在しているかのように聞こえてしまうのではないか。でも、ジェンダーセクシュアリティも、どういう意味で使おうが分析概念なのであって、別にジェンダーというものやセクシュアリティというものがあるわけではない。両者が別々のものを指すと決まっているわけではない。いや、別々のものを指すと定義して使うのはかまわないが、そのように定義する正当性自体が、人びとが考えていること、やっていることの分析の後に発生するものだろう。
 もう少し具体的に言うと、「性欲」と「性別」に同じ「性」という文字が含まれ、しかもそれが単なる偶然ではなく、二つの言葉の意味において密接に結びついているように見える。このことは社会学においては前提ではなく、なぜそうなのかと問われるべき謎である(小宮さんをはじめ、エスノメソドロジストなら、二つの概念の結びつきの理解可能性と言うところかもしれない)。気をつけてほしいのだが、これは、「性欲」と「性別」は本当は別ものだということでもない。本当は別々のものが同じ言葉で呼ばれているのはおかしい、という日常言語批判をしたいわけでは、さしあたりのところ、ない。確かなことは、少なくとも「性欲」と「性別」という二つの単語があり、両者が別々の語として区別されながら、密接に結びついたものとして使われている、という事実であり、社会学はこの明白な事実を眼前に共有しつつ、そこで何が起きているかを論じあうことができる、ということである。
 そのように考えると、「ジェンダーセクシュアリティは別の事柄だ」、そしてそれの系として「性別同一性(ジェンダーアイデンティティ)と性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)とは別のことで、一緒くたにするのは間違いだ」といった主張をあらかじめ前提しておくことは、可能な分析の幅をものすごく制約してしまうし、さらにはジェンダーといった用語が日常語化した現状においては、そのような前提は分析すべき対象としての社会的現実から遠ざかってしまいかねないがゆえに採用できない(先日紹介したDavid Valentineの本もその辺りを論じていた)。もちろん僕も講義の中では「性別と性欲とはこんなふうに絡まり合ってとらえられているけど、こんなふうに考えると区別する方が自然だし、実際、ゲイ男性がみんな女っぽいわけじゃないよ」みたいな話もする(もっときちんとだけど)。これは、分析者視点の水準から日常言語視点の水準に介入しているとも言える。そういうことはあってもよい。だから、ジェンダーセクシュアリティも、それぞれがはっきりと区別される現象を指すというよりも、人びとが性と呼んでいる事柄のそれぞれ異なる側面を把握しやすくするための暫定的な分析概念として、つまり便利な道具として使うのなら、全くかまわない。でもそのことを認めるならば、「ジェンダーだけでセクシュアリティが無視されている(またはその逆)」といった言い方は、少なくともミスリーディングだと思う。というか、そのように言うだけでは実のある論難にはならない。そこで批判を向けられている研究が分析対象として取り上げている素材の中に、セクシュアリティという概念で掬い上げるのがふさわしい要素が含まれているにもかかわらず、それが見落とされている、ということを積極的に示せるときに限って、それは論難として成立するはずである。そうでない場合、ジェンダーは関与しているがセクシュアリティは関与していないということが人びとの側の、社会の側の現実であって、研究者はむしろそれを的確に分析し得ているのかもしれない。
 もうひとつ、これはフェミニズム史ややはりValentineの関心とも重なるが、「ジェンダー」という概念の歴史性そのものも、そろそろきちんと分析されてしかるべきであるように思う。フェミニズムジェンダー論が、捨てるべきものは捨て採るべきものは採って、みずからを力のある言説として更新してゆくためにも。その意味で、事実上「社会的性差という定義は忘れて、別の視点からジェンダー論をやっていこう」というマニフェストでもありその実践例にもなっている小宮さんの本には大きな意義があると思う。
 もうちょっと正確に言うべきところもあるが、どうもダラダラと長くなった疲れてきたので、今回はこの辺でやめておく。

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