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哲学の歴史、『さようなら、私の本よ!』

 おとといから風邪で発熱。パソコンに向かって原稿を書こうとするが息切れがして続かず、しかし完全に寝るほど重いわけでもないので、寝ころびながら、飯田隆編『哲学の歴史11 20世紀? 科学の世紀と哲学 <論理・数学・言語>』(中央公論新社)を半分ぐらいまで読む。とっても面白い。とくに、小林道夫執筆の項目でポアンカレデュエムの意義がわかった(気がした)。フレーゲの項目(『ダメットにたどりつくまで』の金子洋之執筆)はすごくきちんと書かれていると思うが、僕には難しかった! ラッセル(戸田山和久執筆)は、こんな講座本でも自分の本とまったく同じ調子で書いてくださる戸田山氏の強気のおかげで、かなり明快。一応、三浦俊彦『ラッセルのパラドクス――世界を読み換える哲学』を読んでおいたおかげもある。そのときはいまひとつ腑に落ちなかったタイプとオーダーの話も、戸田山氏の解説で合点がいった。
 ところでこの本、こんなに分厚いのにもの凄く売れているのか、それとも初刷りが少なすぎたのか、刊行直後から、Amazon.co.jpでも大学生協に注文しても「半本品切れ」になっていたのだが、新宿のジュンク堂には何冊も並べてあった。
 しかし、いくら面白いと言っても、熱でぼんやりした頭に分析哲学はだんだん辛くなり、しかし何か読みたくて、積んであった大江健三郎『さようなら、私の本よ!』に手を伸ばす。大江氏の圧倒的な妄想に当然引きずり込まれ、これも一気に半分ぐらい読んでしまった。『万延元年のフットボール』全共闘とその挫折を、そして『懐かしい年への手紙』において「オウム」的なるものの噴出を予言的に想像してきた大江氏の「後期の仕事」とされる怪作群は、どんな「なんともしれない未来」を予言してしまっているのだろうか。なお、『さようなら』は基本的に同じひとつの小説の第三部とみなさなければならない。つまり、『取り替え子(チェンジリング)』『憂い顔の童子』を必ず読んでから、この最新作も読むこと。そうでないと、何が何だか分からないと思う。