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『社会学になにができるか』拾遺

社会学になにができるか社会学になにができるか
浅野 智彦 加藤 秀一 葛山 泰央 西阪 仰 市野川 容孝 山田 信行 奥村 隆

八千代出版 1997-04
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 つい最近気づいたのだが、僕も寄稿した『社会学になにができるか』という本についてのAmazonレビューに、「とにかく回りくどい文章である。まず、社会学によって、なにができるのか、どのような見方をするのかを最初に提示した方が読者には親切ではないだろうか」というコメントがついていた。実はこれはまさしく僕が書いたジェンダー論の章についての感想なのだが、どうも違和感がある。僕の文章に「回りくどい」と言われても仕方のない面があることは認めるし、その否定的な部分については今後の精進によって改善したいとは思うけれど、どうもこの人は性急にすぎるのではないだろうか。
 僕が書いた章は、その全体を費やして、社会学的なジェンダー論に「なにができるのか、どのような見方をするのか」を説明したものだった。もっと正確かつ具体的に言えば、たとえば「私たちの日常観念においては、性別という観念と性欲という観念とが癒着してますよ」ということを示す分析作業を実際に遂行することを通じて、私たちが「性」という概念をめぐって考えていること、やっていることの成り立ちを明らかにすることが、直接の目的であった。そして、この作業の全体が「ジェンダー論になにができるか」という問いに対する解答にもおのずとなるのであって、上述の作業とは異なる場所に、その答えがあるわけではない。
 つまり、具体的な素材に関する分析作業の遂行と切り離して、「社会学には、私たちの日常概念の成り立ちを解明することができるのだ!」と叫んでみても意味はない、というよりも、それしか書いてない本は(そんなものがあるとすれば)むしろ有害ではあるまいか。「入門書」(この表現は出版社が帯に使っただけで、編者・著者は必ずしもそのように意識してはいなかったけれども)であるからこそ、「社会学にはこれこれができる」というスローガンばかりを並べるのではなく、そうしたスローガンの意義を理解してもらうためにこそ、実際にその「これこれ」をやってみせるべきであり、その上で初めて、「ね、これこれこういうことができるんだよ、そしてそれをスローガン的に言えば、こういう風にまとめられるわけ」という文句をそっと添えるべきだと思うのだ。
 それとも、もしかして少なからぬ人が、手っ取り早く「なにができるか」を知りたいだけで、実際にその「なに」をしてみせるという作業につきあいたいとは思っていないのだろうか? だがそんなふうに本を読んでも、頭の中には曖昧なスローガンが並べられるだけで、自分でも実際にその「なに」をできるようになりはしないと思うのだが。そんなの、つまらないじゃないか。