海老坂武『サルトル――「人間」の思想の可能性』(岩波新書)

 風邪をひいて寝込みつつ、海老坂武『サルトル――「人間」の思想の可能性』をイッキ読み。ばくぜんと予想していたよりもはるかにエキサイティングな本だった。「あとがき」でベルナール・アンリ・レヴィの〈反人間主義〉的サルトル読解に真っ向から異議申し立てしているが、本編でも海老坂さんが繰り返し強調するのは、「サルトルはつねに〈人間とは何か〉」を考えつづけたということ。すなわち、ふつうの意味でのヒューマニズムへの軽蔑から出発したサルトルが、なにゆえに『実存主義はヒューマニズムである』と宣言するに至り、それを生涯貫いたか、が語られる。
 いかにも古色蒼然、戦後のいわゆる〈サルトリアン〉の残党が書いたサルトル信仰の断末魔の叫び、と思われるだろうか?(若い学生諸君は、たぶんそんなふうに斜に構えるほどの前提知識も持ってはいないかもしれない。それは、目下の文脈に限っては、良いことだ。)しかしこの本の印象は、ため息が出るほどに瑞々しく〈新しい〉。アマゾンで、個人的感傷が混じりすぎとか書いている人がいるが、これはサルトル解説書であると同時に、むしろそれ以上に、あくまでも海老坂武の著作だということを理解できなかったのだろう。いま具体的に紹介する体力も時間もないが、本書からは、正確な意味で〈現在〉の問題を考えるための基本的な問いをいくつも汲み出すことができる。それは、著者の姿勢ゆえであるとともに、もちろんサルトルのテクストそのものの力でもあるだろう。いったいこれはどういうことなのか。かつてサルトルポール・ニザンについて言ったように、サルトルという永遠に若い怪物を老いさせてしまったのは我々自身だったのではないか。焦点は、グローバリゼーションであれイラクであれ性教育弾圧であれ、それがそもそも問題になるのはなぜなのかという、素朴な問いを反復し続けることだ。その問いはちっとも答えられてなんかいないのだ。真正面から問う力のない者たち――ぼくもその一員です、すいません――が〈それ〉を括弧に括りながら、周辺部をいじりまわしているだけなのだ。それにはそれなりの理由がある、などと物わかりのいいことを言っている時ではない、と思う。そうこうしているうちに、スティーブン・ピンカーのような人に、左翼の言っていることは「差別はいけません」の一言で尽くせる(正確には誰かからの引用だったが)とおちょくられてしまうのだ。
 海老坂さんのこの本は、いま手軽に入手できるサルトル紹介本の中ではいちばん面白い。でもこれでサルトルに入門するのは、ぼくは勧めたくない。改訳版も出たりして、一時期よりは入手しやすくなっているので、サルトル自身の著作のどれでもいいからまず何冊か読んでみて、興味がもてたらこの新書も手に取ってみるとよい。無防備なほどに平易に、ざっくばらんに書かれているので、読むだけならすぐ読める。でもその含蓄を味わうには、少し時間がかかるかもしれない。
 ついでに言うと、デリダの文体が大嫌いとはっきり書いてあって、ワロタ。『思想の冬の時代に』で、湾岸戦争期のデリダの沈黙を痛罵していたことを思い出した。この点については、かつて米谷匡史氏が『季刊 窓』の書評で課題としてとりあげていた記憶があるが、僕もずっとその意味を、ぼんやりとだが、考えている。答えは全然出ていないのだが。

 しかし、奥付を見ると海老坂さんが今年72歳だったので、一瞬気が遠くなった。俺がフランス語を習っていた頃は、50歳ぐらいだったと思ったのだが。って、何も不思議はないんだけど。。。