中村一義『対音楽』

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中村一義

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 1997年、中村一義はデビュー曲「犬と猫」――のちに『金字塔』に収録――で、いきなり高らかに「どう?最近どう?」と呼びかけてリスナーの意表を突きながら、同時に素知らぬ顔で「僕として僕は行く」とさりげなく宣言することで、説教も煽りもなしに、多くの聴衆を深いところから立ち上がらせ、踊らせた。翌年のセカンドアルバム『太陽』に収められた「再会」では、さらに力強く「僕の体で、僕を超えてゆく」と歌い、この曲を20世紀末のアンセムたらしめた。そしてすべては真夏のオレンジのように瑞々しく甘酸っぱいメロディーになって僕らのもとに届けられた。『金字塔』と『太陽』は、今たしかに何か格別なことが起こっていると感じさせてくれる、数少ないロック・アルバムのひとつ(ふたつ)だった。僕がリアルタイムに同じように感じたのは、1976年のセックスピストルズゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」とイーグルスホテル・カリフォルニア」、1984年のU2ヨシュア・ツリー』ぐらいしかない。名作・名曲はこれら以外にもたくさんあったけれど、その歴史的意味というか、風景を一変させてしまう力、他のアーティストたち全てがどんなやり方であれそれらを意識せざるを得ないという重みにおいて、中村一義の初期二枚は傑出していたと断言できる。2000年8月13日の「ROCK IN JAPAN FES 2000」で、トリに予定されていた初ライヴを、天候不良によるイベント強制終了のために見られなかったことはとてもとても残念だった(確かにあのときの強風はもの凄く、打ち切り自体には誰も文句を言わなかったと思うけど)。
 でも、だからこそ、その次、2000年に出た『ERA』には、強烈な違和感を感じざるを得なかった。「あんただって、見たろ?/上の方で、手ぇ汚さない、あの辺」「はじまったぜ……。もう、やっちゃえば?」(「メロウ」)――そんなありふれた説教や不誠実な煽りを中村一義から聞かされたくはなかった。聴く者がどう受け取ろうが、それはそいつ次第のこと。僕として僕は行く。ただそれだけだ。その結果、何が起きるかは、僕の知ったことじゃないけど、でも楽しみにしている……。群れの中、ただ独り初めての旋律に乗せて、でもなぜか懐かしいような唄を歌い始める中村一義の佇まいに信頼を寄せ、踊らされていないからこそ自分も踊ってみることにしたのに……。裏切られた、と言えば身勝手な思い込みからの醜い言いぐさであることは承知していたが、ソロから100sというバンドでの活動に移行して、どんどん重厚に、スクエアになる音の質感にも馴染めず、それ以降のアルバムはそれほど熱心に聴かなくなってしまった。
 だから10年ぶりのソロアルバム『対音楽』を聴いてみようと思ったのは、新宿のタワーレコードで偶々それを見かけたからにすぎない。去年の七月に出ていたことも知らず、入手したのはほぼ1年経ってからだった。1曲を除いて、全曲がそれぞれベートーヴェン交響曲をモチーフにして作られたというポップの解説にも興味を引かれた。
 さて、長々とこれまでの個人的中村一義体験について書いてきたが、前置きはここまでにしよう。一気に飛躍して結論、『対音楽』は素晴らしい傑作だ。シングルカットされた1曲目「ウソを暴け!」はそのタイトルにちょっと身構えたが、「いつでもさ、僕は声を届けるから/だからさ、お願い、お願い、お願い、/ねえ、どうか、君は君を消さないで」というストレートな言葉に満ちたラブソングだった。そして「第九」にちなんだ「歓喜のうた」では、ついに、中村一義からしか聞くことのできないあの宣言が、未踏の次元で再生される。「君にとって音楽はどういう存在でしたか?/僕にとって音楽はみんなと逢う『僕』でした」。澱みの消えた歌詞にふさわしく、すべての曲が透明に美しい。時おり織り込まれるベートーヴェンのメロディに、中村自身のメロディが拮抗し、調和しているのは驚くべきことだろう。涙は出なかった。それとは別種の感動に鼓舞されたから。