現象学

現象学」という言葉は、今なお僕の中に――“村の娘を呼ぶように”(谷川雁)とはいかないまでも――どこか心が躍るような、秘密の憧れめいた、まだ見たことのない場所へ足を踏み入れようとするときのような、あのえもいわれぬ感情を喚起する。たぶん一種のノスタルジーもあるのかもしれない。それは、自分が堂々めぐりしながら考えてきた問題群により深く分け入るための言葉/方法に出会えるかもしれないという若い期待にあふれていた時期(青春!)に現象学と出会ったことの残響なのかもしれない。

 けれども、高校から大学にかけての時期に、僕にとって同じくらい重要な認識の開けを与えてくれたマルクス主義やソシュール言語学に対してはそんな甘酸っぱいような感じを持ってはいないのだから、やはり現象学には何か特別なところがあるのだろう。より正確には、現象学と僕との関わりの質の中に、と言うべきかもしれないが。うろおぼえの伝聞だが、真木悠介(見田宗介)氏は<現象学がわかるかわからないかは体質の問題だ>と言ったことがあるそうだ。もちろん僕は現象学の専門的研究者ではないし、学的な意味で「わかっている」などと主張するつもりは毛頭ない。前日の日記でとりあげた谷徹『意識の自然』のような本からは、ひたすら感心して学ぶのみだ。しかし、その著者のような優れた専門家からの失笑を覚悟の上で言うならば、経験そのものに徹底して内在することから一切が構成される/発生する過程を厳密に記述するという現象学の姿勢が、僕の体質――もちろんこれは比喩で、文字通りには知的な傾向性とでも言うべきか――に合っていたのだと思う。

 僕が現象学をかじるようになるまでのコースは、ひと昔(ふた昔?)前のお決まりのもので、高校生のときにサルトルの『嘔吐』を読んでなんとなく現象学っぽい雰囲気に馴染み、大学に入ってからは、当時定番だった木田元『現象学』(岩波新書)をまず読んだが、これはまるでわからなかった。いま現物が手元にないのだが、この本は現象学そのものの解説というよりも、その時代的・哲学史的背景や現象学者の周辺についての解説が主で、かの有名なアロンとサルトルの逸話だけがやけに記憶に残っている(パリのとあるカフェで、ドイツ留学帰りのR・アロンが「ほら、君が現象学を学べば、この目の前にあるコップについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!」とか何とか煽ったとき、サルトルは感動でほとんど青ざめた、というボーヴォワールの証言)。

 その次に挑戦したのがモーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(みすず書房)で、最初のうちは「序」だけを繰り返し読んでいた。<現象学とは、セザンヌの絵画にも比すべき注意を事象に向ける、不断の辛苦である>という一節になにやら感動したものだ。現在でも「現象学入門」の最初の一歩として、この序文にまさるものはない、と断定しておきたい。その後、本論もよく読んだが、特に「性」についての分析はいまなお貴重なものだ。ただし、多くの人が指摘しているように、メルロ=ポンティの自他関係分析には、――母親と幸福な関係を築いた人ならではのこと、といいたくなってしまうのだが――葛藤や屈折の要素がなさすぎて、<事象そのもの>に迫り得ていない。ずっと前の日記でも書いたが、彼には整形手術さえ理解することはできなかった。
 
 いわゆる入門書、概説書としては、僕が昔読んだものの中では、新田義弘『現象学とは何か』(講談社学術文庫)の手応えが抜きん出ていた。簡潔だが、非常にレベルの高い本で、繰り返し参照するに値する。ただし、副題に「フッサール後期思想を中心として」とあるように、主に『イデーン?』や後期の遺稿に基づいて、現象学に関する主観主義的という御座なりの解釈をくつがえす<受動性>に議論の焦点が定められているので、そこに至るための全体像をつかむためには、昨日も紹介した谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書)を先に読むほうがよいかもしれない。この本はいまのところ現象学入門の決定版といえる。

 その他、「早わかり」的な本はたくさんあるが、僕もそのすべてを読んだわけではないとはいえ、<不断の辛苦><終わりなき還元>という現象学特有の醍醐味のかけらもない弛緩した本が少なくない(どうも「エロス」がどうのというタイトルの本にそういう傾向が強いような気もしなくはない)。というわけで、上記の2冊を読んだら、あとは直ちにフッサールメルロ=ポンティハイデガーレヴィナスデリダといった人たちの書物にとりくむのがよいと思うが、もう一冊だけ簡便な入門編をはさむとしたら、「現象学」とは銘打っていないが、斎藤慶典『デカルト――「われ思う」のは誰か』(NHK出版)を圧倒的におすすめしたい。短いながらためになる本の多い「シリーズ・哲学のエッセンス」の中でも、これは出色だと思う。「デカルト主義」だの「デカルト二元論」だのといった粗雑きわまりない言い草が「批判」のつもりで垂れ流される風潮が、デカルトの戦いを生み出した文化を持たないこの日本で安直に自明視されるようになったのがいつ頃からなのかは知らないが、<絶対確実なもの>を追い求めるデカルトの闘いは、それが知の本質的な営みそのものであったかぎり、原理的に終わるはずもない(小泉義之氏の『兵士デカルト』もそうした思いをふまえた命名だったのだろうか)。
 そのデカルトフッサールとの違いについては微妙な問題があり、デカルトの求めた「確実性」とフッサールが還元という方法を通じてめざす「認識の起源」とは同じことではないのだが(斎藤慶典『フッサール 起源の哲学』講談社選書メチエ)、そうだとしても、決定的な意味でデカルトの懐疑がなければフッサール現象学も始まらなかったことは疑いえない。フッサールにとっても、認識の事実という意味での、デカルトとは別の種類の「確実性」が問題だったと言ってもよい。その意味で、デカルトの戦いはまたフッサールが引き継ぎ押し進めた戦いでもあったように思われるし、それは今後も変転を重ねつつ、必ず誰かによって引き継がれ、決して途切れることはないだろう。たとえそれが、しばしばどんなに時代遅れに見えようとも、現象学の徒は、その<時代遅れ性>そのものを、ただ注視し、そうした風潮が湧き上がる時代の地盤を分析しようとするだろう。