補足・「愛国心」の基礎

 『全体主義の起源』のドレフュス事件に関する記述には、ドレフュスを擁護したクレマンソーの次のような言葉が註として添えられている(邦訳第1巻、175頁)。

愛国主義のためには祖国がなければならない。そして正義なしには祖国はない。法律なしには祖国はない。」

 原文を調べてみると、 

...pour le patriotisme il faut une patrie. Et il n'y a point de patrie sans justice, il n'y a point de patrie sans droit.

……となっている。「愛国主義」はパトリオティスム。フランス語の語感はわからないが、英語で「愛国主義」と訳されうる言葉には"patriotism"の"nationalism"の二通りがあって、前者は自分が生まれ育った故国への愛着を表し、基本的にポジティヴな語、後者は政治的な狂信性を感じさせ、ネガティヴな文脈で用いられることが多いという。したがって、もしもフランス語のpatriotismeが英語のpatriotismにほぼ対応するとすれば、これは「愛国主義」や「愛国心」よりも、せいぜい「郷土愛」とか、「生まれ育ったクニへの愛着」といった訳語のほうが適切ではないかと思う。

 もちろん、そのような意味での「パトリオティスム=郷土愛」は、国旗を掲揚しないとか、国歌を大きな声で歌わないからといって、教員を処分し、執拗な矯正訓練を押し付けるような行政府の暴力、すなわちあからさまに特定の政治的・宗教的勢力(現在の日本では安部等の神道系極右議員たちを中心とする勢力)によって推進される「愛国心ナショナリズム」と決して両立しないということを、クレマンソーは言っているのである。なぜならそれは「正義」に反するからである(言うまでもないことだが、「正義」は政治的単位としての国家などというものを遙かに超える概念である)。これは定義であって、特徴の分析ではない。

 さらに注意してほしいのだが、クレマンソーの言葉で「法律」と訳されている語は"droit"である。これは「法律」とも訳せるが、同時に「権利」とも訳せる。日本語で考えると、両者は正反対のもののように見えるかもしれない。法律は「御上」が振りかざすもので、権利は「下々」の者どもが与えられる、あるいは獲得すべきものなのだから、と。だがそのような見えこそが一種の罠なのである。法と権利とは、ヨーロッパ(思想)史において切っても切り離すことはできない。そのことをふまえて、近年はフランス語の"droit"やドイツ語の"Recht"に「法権利」といった訳語をあてることも広まってきているようだ。(たとえば、三浦和男訳のヘーゲル『法権利の哲学』など。くわしくは、村上淳一『近代法の形成』岩波書店を参照。)

 行政府の暴力(=不当な懲戒処分や懲罰的矯正教育)によって特定の心情を押しつけることは「正義」に反している。したがって、そうやって押しつけられたものは決して「パトリオティスム=愛国心」ではありえない。諸国民が血塗られた歴史の中からつかみとってきた、そのような常識を欠いた思想を、狂信的と呼ぶのである。言うまでもなくそれは、「保守主義」とは何の関係もない。
 もちろんぼくは狂信者ではないから、教育基本法の改悪や、東京都で行なわれている数々の教員弾圧にはあくまでも反対するし、同時にサッカー日本代表に心からの声援をおくるのである。いやー、いよいよワールドカップが始まって、忙しくてたまらんのに、ウキウキする気持ちを抑えられません。昨日のドイツ対コスタリカ戦は予想よりはるかに面白かった。今日のイングランドパラグアイ戦はいまひとつだったけど、イングランドの老獪さには感心した。ベッカムも鋭い動きを見せていたし、優勝候補の一角という評価もあながち過大ではないようだ。日本代表は、中田英寿も書いているように、うまく平常心で試合に臨み、ひたむきに戦うことさえできれば、ベスト8を狙うのに十分な実力をもっていると思う。(ところで、どうでもいいことだが、左派には、スポーツに無関心・無知なくせに何か一言口を出したがる品性お下劣な輩が多いような気がする。先日書いたイチローの話にしても、その後も『ふぇみん』という新聞に、性懲りもなくイチロー小泉首相をいっしょくたにして「アジア諸国への挑発には熱心だが、それをアメリカに向けることは決してない」云々と書いているくだらないコラムが出ていた。その筆者が、イチローが「アメリカ」とどれだけ正面切って闘い、挑発的な発言によって時には批判を受けてきたかということを、どれだけ真剣に読み、知っているのだろう?)