犯罪、自由、『全体主義の起源』

 物心ついたころに「三億円事件」や「大久保清事件」に強烈な印象を受けたせいなのか、子供の頃のぼくは犯罪というものにものすごく興味があって、学研から出ていた犯罪や科学捜査の紹介本を繰り返し読んだものだった。中学一年のときには<ケネディ暗殺の真相>を明らかに(?)した落合信彦『2039年の真実』に大げさでなく夢中になり、学校の「社会科クラブ」で「犯罪研究班」を立ち上げようと呼びかけたが誰も加わらず、あっさり挫折したのは、いくら厨房とはいえ、ちょっぴりイタい思い出ではある。その次、中学二年生のときに最も惹きつけられたのは、早大学院の高校生が祖母を殺した後に自殺したという事件で、犯人の少年が書き残した相当な分量のノート類を、週刊誌を買い集めてむさぼり読んだ。そこに筒井康隆風の文体で書きつけられていたのは、「早稲田の法学部に行ってサラリーマンになりてえ」というのが口癖のようだったという少年の、<歪んだエリート意識>などと呼ぶには妙に軽いタッチの自意識だった。

 けれども、1980年代に入ってからはそんな熱もすっかり冷めて、どんな犯罪にも特別の関心を抱いたことはない。なぜかはわからないが、現在も個別の犯罪についてはあまり興味がない。ただ、死刑についてはよく考える。刑法論や刑法史をきちんと勉強した上での話ではなく、ほんとうに素朴きわまりないレベルのことなので、学生諸君はあまり本気にしないでほしいのだが(独りでもそれなりに何ごとかを考えるやり方を感得するための参考になればいいと思うので書きとめておくが)、たとえばこんなことである。
 死刑廃止論者は、いままさに人質を一人ずつ殺している犯罪者に対しては、どういう対応をせよと主張するのだろうか。具体的には、数年前に起こったバスジャック事件のことがすぐに思い浮かぶ。犯人は乗客を1人殺した後に射殺された。いわゆる「やりきれない」事件だったが、そのとき、TVのニュースで事件について観ただけのぼくのいい加減な判断は、もっと早くに犯人を射殺すべきだった、というものだった。もちろんそれはベストではなく、望ましい選択肢ではなかったが、そもそもそんな状況ではベストの選択肢など存在しないのだ。さっさと犯人を射殺するほうが、罪のない乗客の命を犠牲にするよりはマシだと思った。いまもその判断は変わらない。念のためにつけ加えておけば、射殺が望ましいと思ったわけではない。犯人が乗客に刃物を向けている状態では、そうするしかなかったというだけのことだ。

 でも、と考える。凶悪犯罪の現行犯を射殺することは、裁判さえなしに警察だけの判断で死刑を執行することに等しいのではないか。だとしたら、死刑廃止論の観点に立てば、それは<ある意味では>死刑より悪いのではないか。犯人がちゃんと人質を全員殺し終わるのを待ってから逮捕して、しかるべき裁判の後に、死刑以外の刑に処すべきなのではないか。
 バカバカしくもおぞましい話のように思える。けれども、死刑廃止論者はこのような論法に対してどう反対しうるだろうか。上のような想定は「結果論」(ぼくはこの言葉が非常に嫌いだが)であって、バスジャック犯がまだ乗客を殺していない段階では、できるだけ犠牲者が出ないように対応すべきだ、という正論もありうる。確かに、それはその通りだろう。そのことに反対はしないが、ではすでに5人の人質の内2人が殺されていて、犯人が後の3人も順番に殺すと宣言しているような場合はどうか。その場合もただひたすら犯人に思いとどまるよう説得を続けるべきなのか。しかしどうもそれは「とりあえず人質が全員殺されるのを待ってから捕まえよう」というのとほとんど変わりがないように思える。
 ではそのような場合は射殺もやむなし、とするなら、その結論は死刑廃止論とは矛盾するだろうか。一点、死刑廃止論の有力な根拠(僕自身が唯一心から納得できる根拠)である「冤罪の可能性」については、上のような特殊な状況においては問題にならないだろう(ここで「現行犯」という言葉を使うのは不正確である。通常、「現行犯」と呼ばれる「痴漢」や「すり」には、冤罪の可能性が十分にあるからだ)。衆目の監視する中で進行している殺人に冤罪はありえない。だから、もしも死刑廃止論者が、冤罪の場合に補償しようがないということだけを論拠にしている場合には、射殺と死刑を区別することができ、前者はやむをえないが後者は許されないと主張しうる。
 だが実際には、少なくともぼくが読んできた範囲では、そのような死刑廃止論は見られない。死刑廃止論の主たる構成要素は、死刑は残酷であるとか、社会そのもののためにならない、といったことのようだ。その是非については、ぼくは相変わらず迷い続けているのだが、いまは論じない。でも、たとえば「残酷さ」についていえば、裁判もせずに殺人犯を射殺するほうがよほど残酷だろうが、それでは上のようなハードケースでは、やっぱり人質が全員殺されるまで待ってから犯人を逮捕すべし、ということになるのだろうか。もちろん、犯人の自殺を防ぐことは当然だ。フーコー『監獄の誕生』で喝破したように、犯罪者こそが最も死から遠ざけられなければならない、それが近代というものの掟なのだから。

 犯罪の原因に何やかやと精神医学的なネーミングを与えることに弁護士が成功すれば犯罪者個人は免責され、犯罪が猟奇的であればあるほどむしろ無罪になる確率が高まるという逆説的な事態が、アメリカ合州国では定着しているという。ダニエル・デネットのような人は、いわば人間=自動機械という観念を、そのような精神医学化とある水準で共有しつつ、そこに「責任」を取り戻すための非決定論を模索(というには、デネットの口調はいつもあまりにも自信満々なのだが)しているように思われる。
 けれどもぼくは、もっと古色蒼然たる、実存主義的な「自由」と「責任」の観念のほうに、どうしても深いシンパシーを感じてしまう。ハナ・アーレント『全体主義の起源』の第1巻で、20世紀の端緒における文化的なユダヤ人礼賛の背後にあった「悖徳」について論じる文脈で、こう書いていた。

 犯罪と悖徳――社交界は犯罪を悖徳として同化するのであるが――とのあいだには根本的な相違がある。犯罪をおこなうものは、その悪事について責任を問われる自由な人間である。悖徳には人間は宿命的な生れつきの素質によってひきこまれるのである。だから、古い時代はいわゆる〈心理的理解〉など全然なしに悖徳を犯罪として断定し断罪したが、この偏狭な道学者的な態度のうちには、人間を法則にしたがって自動的に動くメカニズムに引き下げてしまう近代の心理学者たちの〈人間的な〉理解のうちにある以上の、人間の人格に対する、人間の自由に対する敬意が生きているのだ。「刑罰は犯罪者の勝利である。」裁判官が――プルーストが描いているように――倒錯者の犯した殺人を、ユダヤ人のおこなった裏切りを《fatalite do la race》(人種の宿命)ということで恕すならば、犯罪者はこの権利を奪われる。(……)いわゆる心理的理解なるもののかげには、殺人と裏切が発散しはじめた魅力がすでに秘められていたが、同じくいわゆる寛容なるもののかげにも、証明された犯罪を罰することをもはやせずに、何らかの理論によって〈人種的に〉欠陥を負っているとされるすべての人間を絶滅する立法といったものがすでに準備されつつあった。(……)犯罪のうちに悖徳〈のみ〉を見る見かけだけ偏見のない精神は、法を制定することを許されたとなるといかなる場合にも、峻厳ではあってもとにかく自己の行為についての個人の責任はなお承認し尊重する法律よりも残忍で非人間的であることを、事実をもって示したのだ。
『全体主義の起源 ? 反ユダヤ主義』大久保和郎訳、みすず書房、164-165頁)

 うーん、アーレント先生、こう書き写していても思わず首を振ってしまうほど、含蓄ありすぎ。「人間」という観念にだらしなく寄り掛かった(=それ自体を不断に問い直すことのない)ちょーしの良いユダヤ人(=天才)賛美が、いかにしてあの惨劇につながっていったのかを怜悧に描き尽くすアーレントの議論には、どこを読み直してもまったく他人事ではないと思わせる〈痛み〉に満ちている。