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越境の時――一九六〇年代と在日

 その人の前に出ると居ずまいを正さずにはいられないという相手が僕にもいる。数少ないそうした人たちの一人がフランス文学者の鈴木道彦さんである。一橋大学時代、鈴木先生の授業やゼミに都合3年間も出席していたことを告白するのは、現在までのところ超低レベルのフランス語力しか身につけられていない文字通り不肖の弟子である僕にとってまさに〈恥を忍んで〉の類でしかないのだが、それを言っておかないと後の話が続かないので仕方がない。

 中学生のころは大江健三郎に憧れて、将来は東大の仏文科にはいろうかなどと夢想したこともあった僕は、やがて「文学部ってのはちょっと違うんじゃないか」と未熟な思案をめぐらして、結局社会科学系の学部に入った。それでも当時はどの大学でも必修だった第二外国語は当然のようにフランス語をとったのだが、一年時は大甘の名物老教授のクラスに当たったおかげで(他人のせいにしちゃいけませんが)、生来怠け者の僕はまったく勉強せず、le/la/lesという三つの定冠詞を覚えただけで三つのAをもらったのだった(古き良き時代、と言っていいのかどうか)。
 これではいけないと二年生になって奮起した僕は、フランス語で最も厳しいとされていた三人の先生たちの授業をとることにした。ひとつは若手のS先生のクラスで、マルグリット・ユルスナールの作品を読んだが、これは僕にとってはあまりに難しく、テキストに出ていたアールデコ風の挿絵しか記憶に残っていない。S先生も学生たちのあまりの出来なさに戸惑ったのか、あるとき僕に「君は他の授業にも出ているそうだけど、それらのテキストと比べてこれはどうか?」と尋ねてきた。僕は正直に、このクラスのテキストがいちばん難しいと答えたものだ。
 もうひとつ出ていたのが、その厳しさゆえに、フランス語なんか適当にやって楽に卒業したい学生たちからは蛇蝎のごとく忌み嫌われていた海老坂武さんのクラス。かなり身構えて出席したものの、別に怒鳴られたりするわけではなく、毎回一曲のシャンソンを聴き、歌詞を読解するというもので、これは楽しかった。クールに男を見捨てる女を描写したバルバラの歌詞の一節を(日本語訳でだけど)いまでも思い出せる。翌年には、ボーヴォワールの『第二の性』を読む(これも日本語)海老坂先生のゼミにも出ることになった。
 そして鈴木先生のクラスでは、最初にフィリップ・スーポーの短編を読んだように思うが、記憶が定かではない。途中からテキストがサルトルの『実存主義とは何か』(原題の直訳は『実存主義とはヒューマニズムである』)に替わったのは確かだ。ミシェル・ビュトールのテキストも読んだ記憶があるが、これはゼミでだったかもしれない。
 僕は高校時代にサルトルの『水いらず』『嘔吐』、そしてカミュの『異邦人』『シーシュポスの神話』ぐらいは読んでいて、実存主義という言葉だけは知っていたし、たぶん大江健三郎のエッセイでサルトルのことを読み、この作家・哲学者にそれなりの興味をもっていた。彼が1980年に亡くなったときの新聞記事(彼を悼むためにパリの道路を埋め尽くした何万人もの群衆の写真に強い印象を受けた)の切り抜きもどこかに残っているはずだ。
 人は自分自身の問いの答えをすでに知っているのだという『実存主義とは何か』は、20歳を少し過ぎたばかりの青少年にとっては非常に鮮烈で、こういうものをフランス語で読めたらいいなあと思った僕は、三年時には鈴木先生のゼミを履修することにした。当時の一橋大学では、三・四年次を通じて同じ指導教官のゼミに所属することが必修だったが、教官が認めさえすれば他学部のゼミも履修できたし、複数のゼミに所属することもできたので、僕は「主ゼミ」を社会科学系にして、鈴木ゼミを「副ゼミ」としてとったのだった。しかし、「副」とはいうものの、ゼミへの帰属意識という観点からいえば、鈴木ゼミこそが僕の大学生活の軸だった。その証拠(?)に、卒業後に本ゼミの同窓会には一度も出たことはないが、鈴木先生を囲む会合にはほぼ必ず出席している(あらぬ誤解を避けるために書き添えておくと、主ゼミの指導教官であるK先生から受けた長きに渡る励ましにはつねに深く感謝している)。

 そうして僕はフランスの思想家たちにいくらか近づき、ポール・ニザン(『アデン・アラビア』!)フランツ・ファノンを囓るようになったのだった。そんなころ、鈴木道彦その人の1960年代の評論を集めた『政治暴力と想像力』を読んだのは、ゼミが始まる前だったか、それとも後だったか。もうはっきりとは覚えていないのだが、そのときの腹に響くような重い衝撃を忘れたことはない。とりわけ、「橋を我がものとする思想」の末尾で、著者が当時の左派による「アジア・アフリカ諸国の民衆との連帯」といった美辞麗句のあまりにも能天気な楽観主義にきっぱりと違和感を表明していることに、自分自身が冷たく射ぬかれたような思いを味わったものだ。差別する側としての責任を自ら問いつつ、差別される側が世界を反転しようとしてそれに絡めとられるナショナリズムや(裏返しの)人種主義の危険性をも剔抉し、安易な「連帯」という観念の空虚さを批判し、その上でなお差別者・被差別者の非対称性を乗り越える思想と行動(「橋」)を模索していたはずのこの論考に深く揺さぶられていた僕は、ずっと後になって「ポスト・コロニアリズム」や「アイデンティティの政治」といった標語の下に織りなされる議論にふれたときにも、格別に目新しいことが言われているとは思わなかった。この時以来、支配する側とされる側、あるいは差別者と被差別者との関係についての僕の思考は、この論考によって規定されつづけていると言っていい。言うまでもなくそれは、男でありつつ女性解放思想にコミット(アンガジェ!)してきた僕にとっては、一瞬たりとも忘れることのできない問題であった。
 『政治暴力と想像力』がいま手元になく、確認できないのだが、金嬉老事件について知ったのもこの本によってだったと思う。そういう事件があったということだけは中学生の頃にテレビの特集番組で知っていたのだが、その背景や意味についてはまだ何も知らなかったので、それもまた衝撃だった。いま思うと不思議なのだが、大学二年の時、僕は朝鮮近現代史かフィリピン史を専攻しようかなと思案していた時期があり、梶村秀樹の本を読んだり、当時は非常勤で一橋に来ていた姜徳相さんの講義に出ていたことがある。もしかしたらそれも鈴木先生の影響だったのかもしれない。

 鈴木道彦の新著『越境の時――一九六〇年代と在日』(集英社新書)には、これまで座談として断片的にお聞きしたことがあるだけの小松川事件および金嬉老裁判への著者の関わり、そしてそれをとりまく大状況・小状況が、克明に、生々しく描き出されている。本当はこの本の価値を正確に紹介するためにこそ、ここまでの来歴を書き連ねていたのだが、ここまできてこの本が提示する問題群とそれらをめぐる重層的な考察を――「民族責任」の概念、差別者/被差別者の対立軸の歪み、小松川事件から『パッチギ!』に至るあいだの社会状況の大きな変化等々――現時点でのに自分には、とてもじゃないがうまく整理しきれないことに気づいてしまった。だからその作業にはいつか機を改めて再挑戦したい。
 ここではただ一点だけ書き添えておこう。かつてエッセイ集『異郷の季節』をめぐってお話ししたとき、鈴木先生は「自分は日本にいても異郷にいるような気がする」と仰っていたのだが、そのときの僕には、その言葉の奥行きがまるでわかっていなかった。それは言葉を無闇に飾らない鈴木道彦が少しだけ格好をつけてみせた台詞などではなかったのだ。鈴木道彦は本当に、本物の、異郷の人だった。『越境の時』を読めば、誰でもそのことがわかるはずだ。1969年の「橋を我がものにする思想」と2007年の「越境」という二つのテーマを眼前にして、ある人はその一貫性に驚き、ある人はその変化のなさを進歩のなさと取り違えて冷笑するかもしれない。後者が安易にすぎる態度であることは言うまでもないが、二つがまったく同じ意味ではないことも見落とすべきではないだろう。差別者と被差別者とを隔てる橋=境界そのものに立ち止まろうとする前者に対し、「越境」という言葉には、どれほど不安定なものであれ、かろうじて彼我のあいだに架けられている橋を実際に渡らねばならないという積極的なニュアンスがある。それは、本書の中で鈴木氏が、現代日本を覆うあまりにも低俗なナショナリズムを「頽廃」として痛罵しながらも、在日問題を描いた『GO』や『パッチギ!』の新しい「軽さ」に、戸惑いつつ肯定的な姿勢を見せていることと重なっているように思われる。