五十嵐大介

『リトル・フォレスト』しか読んでいない人にとって、五十嵐大介とは、「スローライフ」(第2巻のオビにそう銘打ってある)あるいは「ロハス」(オエッ!)を先取りしたまんが家というイメージの範囲に収まっているかもしれないし、あるいはそんな流行語で括るには少しばかり苦すぎるし厳しすぎる作品を描く人だなというぐらいの印象しかないかもしれない。もちろん『リトル・フォレスト』は良い作品なのだが、それだけを見て、どっちつかずのイメージで五十嵐大介を流してしまうのはもったいない。『魔女(第1集第2集)』(小学館)『はなしっぱなし(上)(下)』(河出書房新社)『そらとびタマシイ』(講談社)に収録された短編群(ゆるやかな連作が多い)をぜひ読んでみてほしい。スローライフスローフードが悪いとは言わないが、少なくとも五十嵐の描く魔術世界における生が、近代産業社会に比べて別に「ゆっくり」であるわけではないということは直ちにわかるだろう。森の木々の枝葉のすべて、部屋の中の調度や道具の端々にまで、たっぷりと<意味>が染み込んだした世界では、ぼくらの呼吸はむしろ息苦しくなってしまうはずだ。ただそこに生まれ育った者たちは、そんなずっしりと重みに満ちた空気をものともせず、自在に吸い、吐き出すことのできる、強力きわまりない肺をもっているのである。
 あえて別のスローガンを貼り付けるなら、<アニミズム漫画>とでもいうほうが、まだしも雰囲気が伝わるかもしれない。そして非近代の世界を描いているから、生贄は生贄として殺される。たとえば、『魔女(第2集)』に収められた「うたぬすびと」の残酷さはどうだろう。生きている実感をもてない少女が旅に出て、少しずつ世界の肌触りを取り戻す。これは言うまでもなく現代のあらゆる表現物においてありふれたテーマだ。そして、誰も冷笑して済ませることのできない、必然的なテーマだ。だから五十嵐大介もそれをストーリーにした。硬直した生からの救済を謳うのではなく、現実の悲惨を直視するのでもない、読者をぽつんと放り出すような奇妙なストーリーに。何も解決されず、深められてもいないが、メッセージはこの上なく明瞭である。最も偉大なものは<自然>であり、それに逆らう者は容赦なく罰を受けねばならないということ、ただそれだけだ。これこそは多くの五十嵐作品を貫く基本思想である。