魯迅とブレードランナー

 先日、NHKの『10ミニッツ・ボックス』という教育番組で、魯迅の「故郷」を紹介していた。教科書にも載っている超有名作だというのだが、じつは僕はこの作品のことを覚えていなかった。岩波文庫竹内好訳『阿Q正伝狂人日記(吶喊)』は若い頃に読み、「狂人日記」や「阿Q正伝」の強烈な印象はいまも残っている。たとえば「狂人日記」で、語り手が中国のさまざまな文献を読むと、それらすべての字間に「食人」という文字が隠されているのが立ち上ってきたというあの不快きわまるイメージなどだ。同じく岩波文庫の『魯迅評論集』も拾い読みして、遺言とされる「死」というエッセイの苦々しさが気に入った。でも「故郷」にはまるで印象がない。たぶん、読み飛ばしていたのだろう。

 そんなわけで、藤井省三による新訳版の『故郷/阿Q正伝』を読んだ。「故郷」は、僕以外のたいていの人は知っているのだろうが、いまは都会に住む語り手が幼い頃住んでいた村につかのまの帰郷を果たし、そこで幼い頃いっしょに遊んだ「閏土(ルントウ)」の窮状と彼我の身分差に直面するという切ない話である。興味深いのは、訳者・藤井氏による、作品中の登場人物がお互いの名を呼び合う仕方についての指摘である。竹内役では、幼年時代にはお互い「閏(ルン)ちゃん」「迅(シュン)ちゃん」と気兼ねなく対等に呼び合っていた二人が大人になって再会したときにはそうできないという点に悲劇的効果が生まれていたのだが、藤井氏によると原語では子ども同士の呼び名も対称ではなく、語り手が年長の閏土を無邪気に「閏兄ちゃん」と呼んでいたのに対し、閏土の方は「迅(シュン)坊っちゃん」に相当する言い方をしているので、そこに身分差はすでに暗示されていたのだという。そうなると「故郷」を覆っているは、幼年の無垢が無残に失われたという図式ではなく、すでに幼い閏土でさえ自らの社会的地位を薄々感じ取っていたのだという、より逃げ場のない、重苦しい現実認識であることになろう。物語の末尾で示唆される、自分の子どもたちの世代がそのような桎梏を乗り越えていく可能性への希望も、より陰影の深いものとなる。

 この点だけでなく、藤井氏による「解説」と「訳者あとがき」はとても興味深い指摘に満ちている。もう一点だけ挙げておこう。藤井氏は、日本の近代文学者と魯迅との相互影響について述べつつ、魯迅が日本の小説家に与えた影響の太い線として、〈阿Q〉像の連綿たる系譜について論じている。〈阿Q〉像とは「通常の名前を持たず、家族から孤立し、旧来の共同体の人びとの劣悪な性格を一身に集めて読者を失笑させたのち犠牲死して、旧共同体全体の倫理的欠陥を浮き彫りにし、読者を深い省察に導く人物」であるという(313ページ)。魯迅はその原型を漱石の「坊っちゃん」に見出しつつ、阿Qという独自の生命体へと変態させたのだが、その影響下に今度は日本の作家たちは〈阿Q〉像を紡いできた。大江健三郎の近作群の語り手たる「長江古義人」が「老阿Q」にほかならないという指摘は目が覚めるようだったし、もう一人、魯迅からの影響を隠さない村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』において、語り手で主人公でもある「オカダトオル」は、「幽霊の阿Qから「本当の人」(「狂人日記」)へと生まれ変わろうとして闘っているのではあるまいか」という読みも頷けるものだ。

 話は変わるが、大江健三郎がデビュー前に書いた詩の一行「大きな希望を含んだ恐怖の悲鳴」について、大江氏本人は「魯迅から引用したはずですが、確かめられません」とエッセイに書いたのに対し、この一句が「科挙万年落第生の異常心理をアンドレーエフの手法で描いた(……)「百光」末尾からの引用である」としている。この〈希望と恐怖〉という一対に呼応するかのような台詞が、たまたま平行して読んでいた町山智浩ブレードランナーの未来世紀――〈映画の見方〉がわかる本 80年代アメリカ映画カルト・ムービー篇』(羊泉社)に引用されたミルトン『失楽園』の一節に出てきたのでちょっと驚いた。

  さらば、希望よ! 希望とともに恐怖よ、さらばだ!
  さらば、悔恨よ! すべての善はわたしには失われてしまった。

 町山によれば、それは神に反逆して地獄に追放された堕天使サタンの叫びであるという。そしてそれはまた、『ブレードランナー』において、造物主たる人間に反逆したレプリカントの王・ロイの心そのままでもある。「俺は神を殺した悪魔だ。命も限られている。未来も希望もない。その代わりもう恐怖も迷いもないのだ」(町山、270ページ)。ロイをメアリ・シェリーの怪物フランケンシュタインに重ね、そしてシェリーがエピグラフを捧げるミルトン『失楽園』に、また同じくミルトンにとりつかれた詩人ウィリアム・ブレイクに(大江が無数の引用を繰り返すあのブレイクだ)に遡りながら、造物主(メイカー)への反逆そしてそれを通じた運命の超克、すなわち己れの存在の肯定という『ブレードランナー』の核心を摑み出す町田智浩の手さばきは的確だ。

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