自由意志論

 D.C.Dennett, Freedom Evolvesを読了(前の読書日記であれこれ書いたときは、実はまだ最終章だけ読んでいなかったのです)。〈自由意志の有無を、私たち人間にとって意味のあるやり方で論じるには、形而上学量子論も必要ない。人類が進化の過程で他の動物をはるかに超える自由を獲得し、それを拡張しつつあることを認めるなら、たとえ世界が決定論的にできていようが、自由意志はあるのだし、それゆえ主体はおのれの行為の責任を引き受けることができる〉。デネットの主張を改めて大まかに要約すれば、こんなところだろう。最終章は「責任」の問題について、小児強姦の常習者に対する処罰として終身刑と去勢のどちらがマシかといったやたらと具体的な事例に即しながら論じていて、なかなか面白かった。

 この本を読んでいて、哲学史上の「自由意志」論全般にも興味を持ったのだが、日本ではあまり目にとまる著作が出ていない(日本人によるものも、翻訳ものも含めて)ようなので、専門家たちにとっては古くさい問題で流行ではないのかなと思っていた。ところが必ずしもそうではないみたいだ。アメリカのAmazon.comで"free will"を検索すると、1990年代以降に出た本がたくさんヒットする。それだけでなく、充実したブックリストをつくっている人が何人もいるのだ。
 日本とのこの温度差は何だろう(日本の状況について、僕が勘違いをしていないとすれば)。英語圏では研究分野としての「形而上学」がかなり盛り上がっていると聞いている。そうした全般的な背景の違いがあるのかもしれない。しかし僕の推測したところでは、とりわけアメリカ合州国で自由意志論がアクチュアルな課題であるのには、もっとはっきりした理由があるように思われる。そのひとつは「神」の問題だろう。Amazonにも「カルヴィニストのための自由意志論ブックガイド」なんてのをつくっている人がいるが、デネットが闘いつづけている主要な敵も、神が人間に自由意志をお与えになったという神秘主義的議論である。彼が執拗に〈意識も自由意志も物質である脳の働きであり、そこには何の神秘もない〉と言い続けている、その粘着力は、進化論対創造論の激しい対立(先日の『朝日新聞』にも記事が出ていたが)に象徴される「宗教国アメリカ」の言論状況に対する苛立ち、あるいはそれを変革せねばならないという使命感に由来するものなのだと思う。
 もう一つの理由として、哲学の「自然主義」が早くから再興されていたアメリカ合州国において、物質と意識、存在と規範、といった二項対立が切迫した問題になるのはごく自然なことではないか。ただこちらの推測はあまり自信がないのだが。

 この〈神対進化〉、あるいは〈宗教対科学〉という問題は、今のところ、日本に住んでいるとあまり切迫した感じがしないかもしれない。だが広い視野で見れば、「ガス室はなかった」だの「南京の虐殺は幻だ」だの「従軍慰安婦はみんな志願したセックスワーカーだった」だのといった愚にもつかないデタラメをいけしゃあしゃあと口にする人たちは少なからずいて、そうした人びとの言い分を読んでみると、肝心のところで「そんなことがあったとは信じられない」だの「日本人としての誇りをもっていればそんなことは言わないはずだ」だの、実証的な歴史研究とは何の関係もない戯言を「論拠」のつもりで持ち出しているようなトンデモ論法ばかりである。確かに過去はすでに過ぎ去ったものであり、他の科学分野のように実験対象とすることもできず、したがって歴史にはどこまでも〈物語〉性がつきまとう。だがそれならそれで、南京の虐殺従軍慰安婦以外の事例も疑うべきだろう。神風特攻隊も人間魚雷回天も「なかった」。だって、人間を魚雷に押し込めて自爆を強いるなんて酷いことを、誇りある日本政府がやるなんて信じられないから。――こんな不謹慎なことを公然と主張する資格は誰にもない。いや、もっと徹底して、より遠い過去の〈歴史〉と信じ込まれている事例も全部「なかった」ことにして、きちんと議論を一貫させてもらいたい。徳川幕府は存在しなかった、源氏なんてものはなかった、平安京はなかった、大化の改新はなかった。書いてみると、何となくそんな気もしてくるではないか。聖徳太子は実在の人物ではないという説は前からあるようだし。もちろん、こうなると、〈実在しない対象を指す指示語は何を指示しているのか〉というラッセル的問題が生じてしまい、ややこしくなるのだが。
 話をもとに戻そう。そうした非科学性が差別や暴力に結びついた他の事例は、ハンセン病患者の取り扱いや、血液型性格診断が暴走してB型の子どもがいじめられているとかいう話など、あとを絶たない。こういう素地があるのだから、日本においてだってやがて「教科書に、日本人は遺伝子的に優れていて、中国人は劣等民族だと書け」とか言い出すやつが出てこないとも限らない。その一歩手前まで行っちゃっている人が都知事をやっているのだから。
 なお、この辺の問題の重さを理解するには、どの科学論やポップ・サイエンスの本よりも、グレッグ・イーガンのいくつかの作品を読むのがよいと思う。『万物理論』のモチーフの一つもそのものズバリだし、短編集にも創造論を扱った迫力満点の作品が入っていたはずだ。