光文社 (2007/09)
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しかし僕が真に惹きつけられたのは、実は『カラマーゾフ』続編の話そのものよりも、作品の時代背景に関する説明のなかに出てくるロシアのキリスト教の異端セクトたちである。アンチ・セックスを追究して、風呂場で集会をやったりしているうちになぜか大乱交大会に突入してしまい、そうこうしているうちにボコボコ生まれた父親不明の子どもたちを「新しいイエス」「新しいマリア」と呼んで集団で育てたという「鞭身派」にも笑えるが、それを批判して性の否定を徹底するために「性器をナイフで切断したり、ハンマーでつぶしたり、焼き鏝で焼いたりするいわゆる『ペチャーチ』と呼ばれる行為を繰り返した」(ぐえ)という「去勢派」の、あまりといえばあまりのベタさもどうにかしてほしい。
だが、こういうのはまだ「ありがちだな」ですませることができる。僕が思わず深く興味をそそられたのは、ニコライ・フョードロフという男の「思想」である。著者の説明を引用しよう。
「この思想の主」、すなわちニコライ・フョードロフは、死を人間の根源的な悪とみなし、その克服にキリスト教の奥義はあると考えた。しかし、同時に、死を避けがたい宿命とみることなく、ほかの哲学者とは異なるユニークなアプローチを示してみせた。「死とは、……それなしでは人間が人間でなくなるような、つまり人間が本来あるべき姿でなくなるような特質ではない」とし、死を徹底的な研究の対象とすべきものとしたばかりでなく、自然界の諸力をコントロールすることで死を克服し、ついには「死んだ父祖たちを甦らせる」「ことこそ、キリスト教の復活の意味であり、その延長上に、ゴルゴタで十字架に架けられたキリストの、真の肉体的復活は可能になると考えたのである。(p.224)
これもまた僕にとっては、その主張のどこをとってもまったく賛成できないのに、全体としてはともかく「スゲエ」と唸らされずにはいられない種類の「思想」である。それにしても、「キリスト教」ってのは、とてつもなく幅広い思想のバリエーションを生み出すポテンシャルをもっているのだなあと、思わずしみじみしてしまう。しかし、アレだ、このニコライ・フョードルについてはそれなりに研究があるらしいのだが、やっぱりロシア語が読めないといけないわけよね……。晩年の塙嘉彦は病院のベッドの上で新たにロシア語の勉強を始めていたというが。トホ。父祖の復活のための共同事業について、フョードロフ自身がこう書いていたことを思いおこそう。
「性欲および出生は、父祖をよみがえらせる事業にあっては、消滅してゆくところの一時的な状態であり、動物的残滓にすぎない」
なぜなら、父にたいする子世代の男女の性愛は、行為そのものが父祖の存在を忘れ去らせ、「復活」の事業の実現をはばむものだからである。フョードロフは、復活の事業を成しとげる原動力として祖先崇拝を挙げ、「全人類の親類的一体化」すなわち同胞が力を合わせることをうったえるのだが、そこにおいては、当然のことながら、人間の奴隷状態こそが理想とみなされることになる。
「個人の解放はたんに共同事業の否定であり、それゆえ目的とはなりえず、奴隷制が善となりうる」
フョードロフが「共同事業」として残したプロジェクトには、驚くべきアイデアが披露されていた。そのもっとも偉大なアイデアが、分子を集めて人間を合成するという、現代にいうクローンの創造であり、自然統御の理念であった。
『カラマーゾフの兄弟』との関連において、ドストエフスキーの興味を何よりも引いたのは、その哲学の根底にみなぎる父祖崇拝のパトスであり、男女の性愛にたいする否定である。子どもは、父親の犠牲とならなくてはならない。この思想は、まさに鞭身派や去勢派にみられる「子ども嫌い」とほぼ同じ土壌にあって、もはやそれ自体が異端派の教義といっても、あながち嘘ではなかった。(pp.225-226)