柳澤健『1985年のクラッシュ・ギャルズ』

1985年のクラッシュ・ギャルズ1985年のクラッシュ・ギャルズ
柳澤 健

文藝春秋 2011-09-13
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 以前から気になってはいたのだが、合場本の書評を書くのをきっかけに、ようやく読んだ。予想を超える抜群の面白さ。今年読んだ本の中でダントツ、いちばん魂を揺さぶられた本である。1980年代の女子プロレスを圧倒的な高みに導いたクラッシュ・ギャルズの二人(長与千種ライオネス飛鳥)と彼女たちを取り巻く多士済々の人間群像を描くノンフィクションだが、クラッシュの親衛隊から後に女子プロレス専門誌の記者になった一ファンの語りを冒頭および幕間に配することで、選手・業界・客の抜き差しならない関係全体を描き出すことに成功した。
 いろいろ言いたいことが浮かぶが、書いている余裕がないので、印象に残った箇所をいくつか抜き書きしておくにとどめよう。

 小学四年生の春、千種は夜遅い時間にテレビでやっていた女子プロレスの試合を初めて見た。大きなマッハ文朱と太ったジャンボ宮本が戦っていた。
 「女であること」「強いこと」「かっこいいこと」が、女子プロレスの中ではひとつになっていた。男にも女にもなりきれない十歳の少女が夢中になるのは当然だった。(p. 32)

 なぜだろう? どうしてこの人たちは、こんなにも自信にあふれた表情をしているのだろう。どうして汗にまみれたふたりが、これほど美しく見えるのだろう。
 ジャッキー佐藤を深く愛した智子は、「私もジャッキーさんのようになろう」と決意した。私は女子プロレスラーになるために生まれてきたんだ。そのためには、こんなに醜い身体のままじゃダメだ。(p. 64)

 プロレスは言葉だ。(p. 91)

 クラッシュ・ギャルズ以前、「凜々しく戦う少女」が主役となることはなかった。「サイボーグ009」の003や「秘密戦隊ゴレンジャー」のモモレンジャーは、少年の世界観を一歩も出ることなく、少年にとって都合のいい脇役であり続けたし、ビューティ・ペアにおいても、女性的なマキ上田は男性的なジャッキー佐藤の庇護を受ける存在だった。
 クラッシュ・ギャルズと同時期の八〇年代半ばに映画「風の谷のナウシカ」(八四年)が登場し、男女雇用機会均等法が施行(八六年)されたのは決して偶然ではない。日本経済がバブルに向けて疾走していたこの時期、女性は自由と平等、そして戦いを求めていたのだ。(p. 100)

 千種の怒りは強烈で、飛鳥に面と向かって「お前、死神に取り憑かれたね」と罵った。(p. 142)

十代の私たちに自分の基準などありません。クラッシュが言うことがすべてなんです。(p. 154)

 つかこうへいはまったくの素人である長与千種を主役に立て『リング・リング・リング』を上演することに決めた。題材は女子プロレスである。
「千種、お前の一年を俺に預けろ。俺は、男も女もお互いを認め合い、《いつか公平》な時代がくるといいと思って『つかこうへい』と名乗っているんだよ。風呂で寝てしまい、我が子を溺死させた母親がいる。母乳を与えながらうたた寝して、我が子を窒息死させた母親がいる。そういうヤツは一生上を向いて歩いたりしない。でも俺は、お前たち女子プロレスラーだったら、そういうヤツらにも力を与えることができるような気がするんだよ。女子プロレスってなんだ? 普通若い女はおしゃれをしているのに、お前たちは水着一丁で股ぐらを開いている。チャンピオンベルトといったって、ただのメッキだろ? 俺はいままで女子プロレスを知らなくて、ちょっとだけ見せてもらったけど、あんな若さで、水着一丁で肌をさらしてぶつかっていく姿は、まるで天に向かうひまわりみたいだな」
 在日韓国人二世であるつかこうへいは、韓国からやってきた母親を見ながら生きてきた。「なぜ母親はこんな目に遭うのか」「女性はこんな風に扱われるために生まれてきた訳ではない」と感じ続け、憤り続けてきた。長与千種はつかこうへいを「女性に対して深い共感を持つ方」と心から尊敬している。
 『リング・リング・リング』の稽古が始まって千種は驚愕した。女子プロレスラーがプロモーターの酒の席に呼ばれて酌をする。ひどい時にはお座敷で試合までさせられる。あの人は女子プロレスなど見たことがないはずなのに、なぜこんなことを知っているのか?(p. 201)

 一九八五年八月二十八日、大阪城ホール
 観客席にいた一万人以上の女の子たちは、長与千種ダンプ松本に髪を切られる様子を、涙を流しながら見つめていました。
 リング中央に置かれた椅子に座らされた千種は首に鎖を巻かれ、右手をブル中野に、左手をモンスター・リッパーに押さえつけられたまま、ダンプ松本にバリカンで髪を刈られています。
 その姿はまるで、着座のキリストでした。
 長与千種は、私たちが抱える苦難のすべてを背負った殉教者だったのです。(p. 289)

 同じ著者による、女子プロレスラーたちへのインタビュー集『1993年の女子プロレス』も面白すぎて、入眠儀式として読み始めたつもりがとまらなくなり、寝不足になってしまった。巻頭に置かれるのは、著者が「偉人」と讃えてやまないブル中野へのインタビュー。全編もう傍線を引きまくるしかないぐらいの密度で、この人は本当に狂っている、もう何でももっていってください、と頭を垂れるしかない。最高だ。

1993年の女子プロレス1993年の女子プロレス
柳澤 健

双葉社 2011-06-15
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『質的心理学ハンドブック』

質的心理学ハンドブック質的心理学ハンドブック
やまだ ようこ

新曜社 2013-09-05
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 執筆者の一人、エスノメソドロジストの樫田美雄さんからいただきました。ハンドブックと銘打たれているが、中項目辞典の体裁。大きく分厚い造りで、5000円もする。

合場敬子『女子プロレスラーの身体とジェンダー:規範的「女らしさ」を超えて』

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合場 敬子

明石書店 2013-04-02
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 今年の春に刊行された、著者初の単著。手に取ったのは最近どころか夏休み前だったのだが、明治学院大学の学内誌に載せる書評の締め切りがつい先日だったので、今さらながらご紹介する。

ましこ・ひでのり『愛と執着の社会学―ペット・家畜・えづけ、そして生徒・愛人・夫婦』

愛と執着の社会学―ペット・家畜・えづけ、そして生徒・愛人・夫婦愛と執着の社会学―ペット・家畜・えづけ、そして生徒・愛人・夫婦
ましこ ひでのり

三元社 2013-09
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 本日仕事場で手に取り、1章だけぱらぱらと。マーヴィン・ハリスって、「多くの人類学者、とりわけ日本の人類学者にとって、(……)考えただけで吐き気をもよおす、忌むべき、タブー視された、人類学者の部類に入れるなど身の毛もよだつ、いかがわしく、うさんくさく、おぞましい存在」(板橋作美)なんすか? がぜん読んでみたくなりました。
 
ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源 (ハヤカワ文庫―ハヤカワ・ノンフィクション文庫)ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源 (ハヤカワ文庫―ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
マーヴィン ハリス Marvin Harris

早川書房 1997-05
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つばな『第七女子会彷徨』(6)

第七女子会彷徨 6 (リュウコミックス)第七女子会彷徨 6 (リュウコミックス)
つばな

徳間書店 2013-07-13
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 あー最高だな−。早く第7巻でないかなー。
 ただ、この第6巻は、5巻までとはちょっと絵柄が変わったな。主人公たちの顔がだいぶ丸くなって、線が太くなったような……。

中村一義『対音楽』

対音楽(ALBUM+DVD)対音楽(ALBUM+DVD)
中村一義

FIVE D plus 2012-07-10
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 1997年、中村一義はデビュー曲「犬と猫」――のちに『金字塔』に収録――で、いきなり高らかに「どう?最近どう?」と呼びかけてリスナーの意表を突きながら、同時に素知らぬ顔で「僕として僕は行く」とさりげなく宣言することで、説教も煽りもなしに、多くの聴衆を深いところから立ち上がらせ、踊らせた。翌年のセカンドアルバム『太陽』に収められた「再会」では、さらに力強く「僕の体で、僕を超えてゆく」と歌い、この曲を20世紀末のアンセムたらしめた。そしてすべては真夏のオレンジのように瑞々しく甘酸っぱいメロディーになって僕らのもとに届けられた。『金字塔』と『太陽』は、今たしかに何か格別なことが起こっていると感じさせてくれる、数少ないロック・アルバムのひとつ(ふたつ)だった。僕がリアルタイムに同じように感じたのは、1976年のセックスピストルズゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」とイーグルスホテル・カリフォルニア」、1984年のU2ヨシュア・ツリー』ぐらいしかない。名作・名曲はこれら以外にもたくさんあったけれど、その歴史的意味というか、風景を一変させてしまう力、他のアーティストたち全てがどんなやり方であれそれらを意識せざるを得ないという重みにおいて、中村一義の初期二枚は傑出していたと断言できる。2000年8月13日の「ROCK IN JAPAN FES 2000」で、トリに予定されていた初ライヴを、天候不良によるイベント強制終了のために見られなかったことはとてもとても残念だった(確かにあのときの強風はもの凄く、打ち切り自体には誰も文句を言わなかったと思うけど)。
 でも、だからこそ、その次、2000年に出た『ERA』には、強烈な違和感を感じざるを得なかった。「あんただって、見たろ?/上の方で、手ぇ汚さない、あの辺」「はじまったぜ……。もう、やっちゃえば?」(「メロウ」)――そんなありふれた説教や不誠実な煽りを中村一義から聞かされたくはなかった。聴く者がどう受け取ろうが、それはそいつ次第のこと。僕として僕は行く。ただそれだけだ。その結果、何が起きるかは、僕の知ったことじゃないけど、でも楽しみにしている……。群れの中、ただ独り初めての旋律に乗せて、でもなぜか懐かしいような唄を歌い始める中村一義の佇まいに信頼を寄せ、踊らされていないからこそ自分も踊ってみることにしたのに……。裏切られた、と言えば身勝手な思い込みからの醜い言いぐさであることは承知していたが、ソロから100sというバンドでの活動に移行して、どんどん重厚に、スクエアになる音の質感にも馴染めず、それ以降のアルバムはそれほど熱心に聴かなくなってしまった。
 だから10年ぶりのソロアルバム『対音楽』を聴いてみようと思ったのは、新宿のタワーレコードで偶々それを見かけたからにすぎない。去年の七月に出ていたことも知らず、入手したのはほぼ1年経ってからだった。1曲を除いて、全曲がそれぞれベートーヴェン交響曲をモチーフにして作られたというポップの解説にも興味を引かれた。
 さて、長々とこれまでの個人的中村一義体験について書いてきたが、前置きはここまでにしよう。一気に飛躍して結論、『対音楽』は素晴らしい傑作だ。シングルカットされた1曲目「ウソを暴け!」はそのタイトルにちょっと身構えたが、「いつでもさ、僕は声を届けるから/だからさ、お願い、お願い、お願い、/ねえ、どうか、君は君を消さないで」というストレートな言葉に満ちたラブソングだった。そして「第九」にちなんだ「歓喜のうた」では、ついに、中村一義からしか聞くことのできないあの宣言が、未踏の次元で再生される。「君にとって音楽はどういう存在でしたか?/僕にとって音楽はみんなと逢う『僕』でした」。澱みの消えた歌詞にふさわしく、すべての曲が透明に美しい。時おり織り込まれるベートーヴェンのメロディに、中村自身のメロディが拮抗し、調和しているのは驚くべきことだろう。涙は出なかった。それとは別種の感動に鼓舞されたから。

押見修造『悪の華 (9)』

惡の華(9) (少年マガジンコミックス)惡の華(9) (少年マガジンコミックス)
押見 修造

講談社 2013-08-09
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 八月の中旬、American Sociological Associationの年次大会に出るためニューヨークに滞在した際、キンドルで読んだ。この巻は切ない。高校生になった主人公が、好きになった女の子に告白する場面の誠実さはすばらしい。もうこのまま、こいつらを幸せにしてやってくれ、と心の中で何度も土下座した。中二の時にあれこれ騒ぎを起こしたと言ったって、子供のあやまちじゃないか。結果的には人を殺めたわけじゃなし、みんな許してやってくれ。

 とはいえ、「本を読む人」であるというだけでこれほどまでに疎外感に苛まれなければならない、ということが、僕には実感としてよくわからない。中学生の時、僕の友達は勉強はできないが滅茶苦茶オモシロイというタイプが多かった。かれらは本などほとんど読んではいなかったとは思うけど、僕がランボーの「永遠」(角川文庫の金子光晴訳)を暗記して諳んじてみせたら気に入って、ちょっとしたブームになった。星新一筒井康隆はみんな読んでいた。僕は友達(こっちは勉強のできるやつだっかが)に大江健三郎の凄さをアツく語った。本を読んで新たなネタを仕入れて教えてくれるようなやつは一目置かれていた。それはそうだろう、仲間内だけで情報の再生産を繰り返していたって退屈なだけだ。外を垣間見せてくれるやつが内輪でもヒーローになれる。その「外」はバイクやエロ本であることもあれば、文学や映画であることもある(もちろん中学生の僕は、それらすべてに激しく興味を抱いていた。)。
 『悪の華』が描く、澱んだ反知性主義に塗れた世界はどれほどの広がりをもっているのだろう。電車のなかで、高校生らしき女の子たちが「あの人、頭のいい人だからさ〜」「あぁ〜」という会話を、蔑むようなイントネーションで交わしているのを聞いたことがあるが、押見が描くようにそういうノリが主流なのだろうか。先日紹介した浅野さんの本を読めばそのあたりがわかるのかもしれない。ヤンキー社会とか、橋本徹の巧みな反知性主義とか、そいういう話に通じる現実は、どれだけ蔓延しているのだろう。

 それはともかく、作者の魅力的な女の子を造形する能力は異常だ。この巻で終わってくれと言う心の叫びとは裏腹に、主人公が次はどんな美少女と遭遇し、右往左往させられるのか、(としまえんの「ミステリー・ゾーン」の扉が次々と開かれていくように)何度でも見せてくれという欲望も隠しきれないことをここに書きとめておく。